そのボランティア 誰のため?
大学生はやたらボランティアをやりたがる,そんな生き物だと思っています。
就職活動のためであったり。
個々の善意であったり。
私は,大学生ですが
ボランティアにはあまり良い印象をもっていません。
というわけで。
今日は,ボランティアは誰のためのものなのかについてです。
まずは,しょごすの小話をひとつ。
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あるところに小さな集落が,その中にA村という小さな村がありました
Aの近くには川や湖は存在せず
綺麗な飲み水を得る技術もありませんでした
そのため,Aで暮らす村人は,
毎日朝から何キロも離れた川まで水を汲みに行って生活していました
そんなAという村の存在を知った遠い国の人々は
「Aの村人を助けてあげたい」と思い,
Aに小さな井戸を作ってあげました
Aの村人は「もうこれで水汲みをしなくて済む」と
とても喜んでくれました。
それから何年もの年月が経ったある日,
井戸の整備をするために遠い国の人々はAに再び訪れました。
しかしそこには綺麗な井戸だけが残されており
村人は誰もいませんでした。
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さて,長々とした小話が終わったところで本題に。
(小話のトリックはもう少し下に書いてあります!)
ボランティアは誰のためにするのか。
本来は,困っている人のためですよね?
困っている人を自分の善意で助けてあげる。
それがボランティアの本来あるべき姿だと私は思います。
そういってもなかなか難しいのがボランティア。
ボランティアは自己満足になりやすい
そして自己満足であることに気づきにくい
先程の小話に戻ります。
遠い国の人々は,良かれと思って井戸を作りました。
実際にAの村人は井戸ができて,とても生活が潤ったと考えられます。
じゃあ,なぜ村人がいなかったのか。
まず,この村の置かれた状況を神様になった気分で上から見てみましょう。
このA村は,集落の一部でした。
ということは,A村の近くには別な村があったことでしょう。
そしてA村の人は遠くの川にわざわざ水を汲みにいかなければならなかった。
それはきっと,A村の周りの村も同じ条件であった可能性が高いです。
もし,A村の近くの村で水が取れるなら,
A村の人々はわざわざ川に行く必要がありませんから。
そうです,A村はほかの村と水争いになったのです。
結果,A村の人々は争いから逃れたのか
はたまた殺されてしまったのか
結果としては,井戸だけが残るというおかしな状態になった,ということです。
ちなみに,これは実話なんです。
(実際には紛争が起こりました。)
何度も繰り返します。
遠い村の人々は善意で,良かれと思って,
ボランティアとして,井戸を作りました。
この話は,遠い国のお話,ではありません。
震災が起きたとき,ボランティアとして沢山の人が被災地に赴きました。
がんばろう,日本
- その言葉を胸にたくさんの人が駆けつけました。
でも実際は。
ボランティアとして駆けつけた車が渋滞を起こし,被災地に物資が届きませんでした。
沢山の物資が寄付され,一か所に集められましたが,被災地に届けられず
最終的には捨てられていきました。
被災地の情報を少しでも集めようと連日多くのテレビ局が被災地を訪問し,夜もカメラのライトが被災者を照らし続けました。
誰もが,誰かを助けたくて動きました。
確かに彼らに助けられた人もいるでしょう。
でも,自己満足で終わったボランティアも少なくないと思います。
結論。
私はボランティアを否定はしません。
ですが,自分が起こした行動が周りにどう影響するのか考える必要があると思います。
今,自分が赴く場所は何を必要とし
今,どういう状況にあるのか
だれかを助けたい。
その思いそのものは,たとえ偽善であっても
とても素敵なものであると思います。
その思い,井戸にしたらもったいない。
だから,ボランティアをしようと考えたとき,一度俯瞰的に
上から見てみてほしいのです。
今日のしょごすのふたりごとでした。
明日はボランティアに絡めて潰瘍性大腸炎についてお話します(/・ω・)/